昭和42年11月23日 月次祭
御理解第44節に、狐狸ですら死したる後神に奉られるという事を喜ぶと言うではないか。人間は万物の霊長であるから、死したる後、神に奉られ神になるという事を楽しみに信心せよと。
お道の信心が、まず私共が万物の霊長であるという事の自覚を頂かなければなりません。ね、まず私は人間、いや万物の霊長であるという自覚を頂かなければいけません、ね。人間であれば、誰しも霊長だと、確かにそうである。人間誰しも神の氏子であり、神の子である。というて、威張っておって、なら死したる後神になれるという事じゃないの。
その自覚に立たなければならん。ね、神の子であるという自覚。ね、万物の霊長であるという自覚。そこから私共が日々信心のけいこをさせて頂く事によって、ね、本当に人間としての値打ちとか、神の氏子としての値打ち、霊長としての輝きと言うかね。霊光を放つようなおかげが頂けるのでございます、ね。どうぞ皆さん、そこんところをですね、願いとしての信心にならなければなりません。これは一生信心を続けておったから神に奉られるという事じゃないのです。
ね、その信心がただ我情我欲を満たすという事だけの為の信心であったり、まあ言うなら、溺れる者はワラをもつかむというような具合で何かすがらなければおられない、何かすがる物を持っておるという事は心強い、心丈夫だと言ったような事が、ね、信心だと思うておったら間違いだと。 いつも信心によっていよいよ、信心、ね。真心になるけいこ。真心の追求、ね。そこから生まれて来るところの体験、体験を通してなるほど神様じゃなあ、神様はござるんだなあ、なるほど神様のお働きじゃなという確信が持てれるし、いわゆる信心。いよいよ神様をです、信じての生活、ね。
それを安心の生活という。神様を信ずるの生活、ね。しかもその神様の御性質、その神様はどういう神様であるかと言うと、氏子どうぞ信心しておかげを受けてくれよという。ね、氏子一人一人が信心になって、幸せになって、日々喜びと安心の生活させて頂くという事を一番願いとしておられるところの神様。だからそういう願いを、例えそういう願いを持ってお互いが信心をさせて頂く。だからどうでもおかげを受けなければいけない事が分かります。おかげを受けなければ神様を現わす事も出来なければ、神様を信ずる事も出来ない。
ただ理論の上に立った神様。ね、話を聞きゃなるほど合点が行く。けれどもそれだけの神様じゃいかん。もう直に、これはもう説明は出来ない。自分のもうその体、五体と共にその神様を頂いて行かなければ。ね、そこに信心が生まれる、信ずる心が生まれる。しかもその神様は神愛の固まり。神愛、真の愛、ね。そういう神様なのだ、と信ぜれる時に、痛いであっても苦しいであっても、神様がこのようにしておかげを下さる。落ちぶれて袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞ知らるるというのが、人間の考え方。
ね、私共が心の目を開かせてもろうて、信心する者は肉眼を置いて心眼を開かせて頂きますと、そうじゃない。ね、それこそ落ちぶれてみて、難儀に直面してみて初めて分かる天地の親神様の御心である。御心であり、大御心であり、ね。神様のいわゆる信条を把握する事が出来るのである。落ちぶれて袖に涙のかかる時、神の心の奥ぞ知らるると、私は思うんです。落ちぶれてって、誰でも落ちぶれなければいけないかと、そんな事っちゃないけれど、それだけ持っておる一つの難儀を通して、私は神様を分かって行くんだと。
その難儀を、いわゆる問題を通して、なるほど神様はこういう問題を起こさせて、こういう痛い、かゆい思いをさせて、こういう情けないとか、腹の立つような問題を通して、神様が分からせて下さるその心を分からせてもらう。それが心の眼を開かないと分らない。ね、次にいわゆる今日の御理解の中心になりますところの信心なのである。信心とは神心と。ね、私共が思うておる事でもそのまま神様が思うておられるのと同じなんです。私が行うておる事が、もうそのまま神様が行うておりなさると同じ事であるというような信心をですね、いよいよ求めての信心にならなければならない。
ね、ですからお道の信心は、ね。神様になる稽古と言うてもいいです、教祖のその事を御理解に教えておられますですね。めでためでたの若松様よ、枝も栄える葉も茂ると言うではないかと。生神金光大神は家繁盛子孫繁盛の道を教えると。ね、その家繁盛子孫繁盛の道を教えて下さる、ね。その道を教えて頂いて、それを習わせて頂く事がそのまま神様になる事なのだ。ここがお道の信心の素晴らしいところ。ね、家繁盛子孫繁盛の道を教えござる。それこそ、いつもが祝いであり、めでたいのであり、いつもが正月のようであり、ね、いつもがおめでとうございますであり、またおめでたい私であるというような信心をです、ね。金光大神がそういう道を教えて下さる。
そういう道を体得させて頂くところに、家繁盛、子孫繁盛の約束がある。ね、それをも下さる。ならその道を守るという事がどういう事かと言うと、そのままが神になる道なのだ。この方の事を生神、生神と言うけれども、皆もこのようなおかげが受けられる。生神とはここに神が生まれるという事であってという事になるのです。ね、ですからもう、おかげを頂けれる子孫繁盛の、家繁盛の、商売繁盛の、ね。もうありとあらゆる幸せにならせて頂く為のおかげをです、私共頂かせて頂く道なのである。そういう道を教祖は私共に教えておって下さるのである。天地の親神様、その金光大神をおかげの受け始めとして、ね、金光大神にそういう尽きぬ話。
その、だからそういう話が、その普通の話じゃない事が分かるですね。尽きぬ話を金光大神へ伝えておられる。その尽きぬおかげの頂けれるところのお話なのある。ね、ですから普通のお話とは違う、神になられれる道であり、家繁盛子孫繁盛を頂けれるところの道であり、いつも自分が、いつも有り難い有り難いと言うて、お正月のような気分でおれれる道なのである。ね、そういう道をお互いが辿らせて頂いておかげを頂いて行くところに、私は生神の道が開けて来る。そういう、はあこれこそが神様の心であろうかと。我とわが心が拝みたいような時がある。
ね、そういう心を楽しみに、ね、そういう心が育って行く事を有り難いと思うて、信心のけいこをさせて頂かなければならんのに、ね。子孫繁盛の道を教えるのじゃと仰っしゃる道を習わず、商売が繁盛いたします。道を守らずに病気が治りましたと言うのであっては、神にはなれないということ。皆さん、そこんところまで本当に入れ替えしなければいけんのですよ。なぜってそれはね、金光大神のお徳、親先生のお徳で助かるんです、そういう道を歩かなくても、それを守らなくても、ね。
けれどもですね、私共が金光大神のですね、そういう家繁盛子孫繁盛の道を教えるのじゃと仰っしゃるから、その道はどういう道ですかという願いを持たなければいけません。お取次を願い、お取次を頂くと。どうぞお願い致しますとこう。お取次を願うたら、お取次を頂いて行かなければならないという事を、どういうような道がございますでしょうか。そのおかげを頂くにはどういう道がございましょうかと。どういう心の状態にならせて頂いたらそのおかげが頂けましょうかという事を、心にいつも念じ、思わせてもらい、求めさせて頂いて、それがこのおかげの頂けれる道であるという道を、頂いて帰らなければお取次を頂くという事にならん。
お取次を願い、お取次を頂くと。まあ、教団ではそういう言葉は使ってお取次の大事な事を説いておられます。ね、そこで私共が思うてみなければならん事は、お取次を願っておるけれども、お取次を願って行きよらんから、生活状態が変わって来ない、人間が変わらない。ね、これには生神に繋がる道どころではなくて、ただおかげには繋がっても、生神に繋がるという事は出来ない。
ね、そこで何でもけいこなんです、けいこしなきゃいけん。ね、皆さんがこうやって、
今日は23日のお月次際です。そこで、前々から繰り合わせて、商売でも仕事でも、早く、早めに片付けたり、まっ、これは明日にしようというようにして時間を作り、お金の工面もさせてもろうて。ね、お供えの一つも、お供えさせてもろうて、と言うてそのお参りになるでしょう。そういう心掛けがいるんですよ、お参りには。
ね、そういうけいこをしなければいけんのです。今日は暇じゃから、今日はお金も都合ようあるから、時間もあるから、暇もあるからと。だからお参りをするのと大分違いますよね。工夫がいる。今朝から大変難しい御理解頂いた。「そげな時にはハンカチを?」。皆さんが一番大事にしておる物は何かという事だった。一番大事な物、皆さんどうでしょうか。おかげが一番大事、いや健康だ、いや私がもう自分の仕事が大事。もう仕事に自分の命を賭けておる、一生懸命。と、例えば大事なが沢山ございます、ね。
ところが本当に皆さんが大事にしておるかて言うと大事にしてないという事を思うんですよ。仕事がうまいように行かんのはね、あれは仕事を大事にしてない。お金を大事にしておると言いながら、お金に不自由しておるのはアナタ方がお金を大事にしておらんからなの。ね、あのね、お金を大事にするという事はね、百円札が入って来たらこうアイロンかけてね、はあと一枚一枚アイロンかけてその、仕舞う。もう入れたが最後、絶対出させん、と言うてタンスの中に治しておくという事が大事にするのじゃないですよ。
もう本当にそのような人がありますよ、もう財布の中にいれたら最後、もうキレイな札と変えて下さい。なしやち言うたら、もうキレイな札な出すごとなかけんでち。と言うて、それは大事にするとじゃない。キレイな札であろうが、「削げた札?」であろうが、そのお金がね、その生きるという事、生かすという事なの、大事にするという事は。ここが私がね、あの人が昨日参って来てから、何か長柄にお話されるんですよ。話を聞きゃどうしてアンタ方の、そのババさんとかジイさんという人は鬼のような人じゃろうかと言わにゃおられんような話であった。
私は主人を本当に大事にさせてもらうと、こう言う、にも関わらず主人から大事にされてない。言うならばそのお父さんやらお母さんやらから、もうそれこそ虐待、言うならされておる訳なんです。大事にしておるのにそうなる。なるほど、隣の人が見ると、もうアンタぐらいに一生懸命にしておるとに、どうじゃろうかと。隣の人が見るとそうだけれども、神様の目からご覧になると大事にしていないのだ、それは言うならばアンタが大事にしないから、アンタが大事にされないのだと。言うならば、「めんぶい?」向いて唾吐くようなもんだ。
私はもう久しぶりで昨日ですね、もう本当にもう、私はもう本当に心の底からその方を叱りました。もう本当あげなん叱り方をしたのも十何年ぶりだった。もう叱りよって私の方が涙が流れて来た、ね。あの人が悪い、この人がこう言うた。だから私がこう難儀をするとこう言うから、ね。あの人じゃなかろうがと、この人がそう言うたからじゃないぞ。ね、これからもう決してアンタが来てからでも、あれがどうの、これがこう言うたから、こうなったという事は言うちゃでけん。
言うならそれを私は聞かん、と言うて私は、まあひどく、まあ本当に、まあ側におって聞かれないくらいに激しい言葉で、まあ叱らせて頂きながら、聞いておる者も涙を流しておるなら、私も涙を流して、まあお話をした事です、ね。皆さんがですね、大事にするという事は、ね、必ず大事にされなければならんのですよ。ね、物でも大事にするならです、もう物に不自由しちゃならんのですよ。ね、それを例えばもうそれこそケチケチして、こうする事が大事にする事のような思い方をしておったら本当の事じゃないです。
だからしかしその、大事にするというその、内容をね、皆さん一つ検討なさらなきゃいけませんよ。それはどういう事かと言うとですね、まあ答えはそれを生かすという事が大事にする事なんです。それを生かすという事が大事にする、だから大事にしてくれる、大事にしてもらえれる。そこでです、私共がお金だけを大事にする、仕事だけを大事にする。主人だけを大事にする、ね、そういうその部分的な物ではなくてですね、この事を大事にすれば一切が大事にされるという、それが私は信心だと思うのです。
ね、ですから私に一番大事な物は信心なのだと。それは金よりも健康よりも、ね、どのような財産よりも私にとって一番大事な物は信心であるという事である。それは自分の命よりも大事であると言うのである。ね、そこまでおかげを頂いてまいりますと、ね、おかげが受けられます。今朝の御理解を頂きますと、そこのところがですね、色んな角度から説いてある。ね、物を、いわゆるお金を大事にするとか、物を大事にするという事も説いてございますが、ね。信心を大事にすると。大事にするじゃない、それが一番大事な物だと。私にとってはもう、命よりも大事な物は信心だと。
ね、その事の訳が色々説いてございますがです、時間がないからそれを、もう皆さんに聞いてもらう事は出来ませんけれども。だから皆さんはどうであろうかと。一足飛びに中々そんなに出来ませんよね。だからそれを目指さなければいけません、ね。例えばお月次祭。今日はちょっと少し風気味である。ちょっと用事が出来た。もうそのくらいなところからでもけいこさせて頂くと良いですね。月次祭にはその事よりも、もっと大事なのだという事なんです。ね、神様を大事にするという事はもう朝もこげんしてもう、神様を拝んだりお供えしたりする事が「第一足?」じゃないとです。
ね、例えば私が、これはもうおそらく私が一生、これだけは守らせて頂く事であろうと。ね、朝の御祈念に、それはもうどんなに頭が痛かっても、お腹が痛んでおっても、それこそ手足の適う限り、ね、どんな事があってもきちっと朝の5時には御神前に出るだろう。それは私の体よりも、病気よりも神様の方が大事だからだと。ね、ははあ、もう頭が痛かとは神様がちゃんと見通しじゃから知っちゃるから、もう腹ん痛める事はもう神様が知っちゃるから。御無礼しても神様は許して下さる。許して下さるどころじゃないけれども、けれども私のそういう例えば、なら健康状態なら健康状態の事よりもです、神様の方が私は大事であるというところに、そういう修行が出けるんですよ。
ね、だからこの一言を言うと、いわば大事にしていく事を自分の生活の中から色々な角度から、神様を大事にして行くけいこは、見易いところから出けるんです。ね、今朝、朝参りをして来ておる方にも、それを申しましたように。この朝参りだけはです、もう何を置いてもというところにです、私は神様をいよいよ大事にして行くところの、言うなら表現だ、ね。お月次祭を頂く、ただこれだけ沢山の人がお参りして来ておりますけれども、ただお参りをしておるという事においては一つも変わらない。けども、その内容は違う、ね。
ちょいと参って来る、もうそれこそ今日朝からその事を心に掛けさせて頂いて。ね、万事万端にお繰り合わせを願いながら、そして参って来ておる。今日は秋永先生なんかは、午前中から午後、夕方までですね、あの、東久留米教会の御大祭に信徒会長としての、どこの教会でも一通りは御挨拶まわらならんと言うので、お参りをしておられます。今日もお参りになった。ですからもう先生、もうすぐ、またまたお月次祭なのですから、もうこのままおって下さいと言うたら、「 」にちょっと用がある。ちょっとした用ですけども、ちょっと私が行かにゃ分からんようになるから、帰らせてもらうと、帰った。
もう今晩の事はよろしくお願いしておきます。いわば何十里の道を行ったり来たりしなければなりませんのですから、それでもいいのですけれども。先生にとっては、やはりお月次祭は先生の命だ。いや、命よりも大事なのだという事かも分からん、それは分からん。ね、まあとにかく大事なものだけではある、間違いない。しかも、「ふんぷん?」間違えたり、遅くなったりしたのではならないというところに、はあ先生がお祭り、お月次祭を大事にしておられるなということ。ね、先ほど麻生さんがお届けをなさっておられました。
今朝からお夢を頂いた。それが二回だった、二回とも同じでございました。これは御神夢に違いはない、というのでお伺いをされた、お願いをなされた、ね。大田道灌という人が、その太田道灌が天地教、ね、金光教というように天地教というですね、いわゆる教師である、といったようなお夢である。あら、まだ細々出て来て忘れたが、はあこの事覚えとこうと思いながら眠り、言うたらまた次に元のお夢が出てきておった。というようなその、お夢を。皆さんは、まあここで御理解を頂かれる方はピンと来るでしょう。
ね、太田道灌のお話を私が致しましょうか、ね。ある日、狩りにでた。途中雨が降ってきた。貧しい山小屋のようなお家にやはり人が住んでおる気配があるから、そこに立ち寄て、ね。みのかさを、みのを貸してくれと、ところが17~18の可愛いい娘さんが出て来て顔を見るなり、また後ろへ引っ込んでしもうた。そして御盆に一枝の山吹の花を持ってきた。それを、ここに山吹の花どん持ってきてから。「 みの 」を貸してくれち言うたら、やっぱ馬鹿じゃなかじゃろうかちやっぱ思うたかも知れません。
それでもう、すんなりともう、もう好みじゃないごと言いながら帰って、帰って皆一緒に家来たちと会食をいたしました時に、今日はこんなんあったって話した。それでその家来の一人が進み出てから、本当にその自分の主人であるところ道灌に、あなたのもうその武将としては素晴らしい。ね、ところが貴方は文の道に欠けておられます。おそらくはその娘は、ね、私の方には家が貧しくて、貴方にお貸しするみのがございませんのですよと言えなかった。そこで、そのこういう立派な、なげしたお侍だから、これを、いやレンコン食うて下さるだろう、察して下さるだろうと言うて山吹の花をあなたに捧げたのですよと。
その「矢吹の花が?」何したのか。昔、いわゆる古歌に、七重八重花は咲けども山吹の実の一つだになきぞ悲しきという唄でございます。おそらくはその実のひととだになきぞ悲しきという事を貴方に伝えたかったんですよち言われた。もうそん時に、もうそれこそもう恥じいったんですね。小さい小娘からでも笑われたであろうと思うた時にです、発憤したんです。そして文の道を、まあ勉強した訳ですね。であの、江戸城の築城を、江戸城の築城は太田道灌だと言われております。そういう素晴らしい学問を身につけられた。
いわゆる文武両道の名称として仰がれた訳なんです。ですから私は太田道灌 ある時には、神様が謎かけござる。しかも、太田道灌、太田道灌。しかも印象的だったのは天地教とこう言うておられる。おそらく天地教というのは合楽の事じゃなかじゃろうか。私がもう、天地のその事を皆さんに聞いてもらいます。天地教というのは合楽の事である。太田道灌というのは、いうならば私の事であろう。
私が例えば、神様のお心を少し分からせて頂いたら、それに応え奉るところの信心が出けた訳でもないけれども、まあレンコン食うて信心する。はあ神様は何を求めござる、先生が何を求めてござると思うたら、そういう願いに応えての信心。神様もね、それがそうには仰っしゃらんとですよ。ね、そこんところを私共がその、レンコン食うて行かにゃいけんというお話を頂き接して行きよらなければです、ね、分からん。さあ参って来たレンコン食おうち言うたって分からん。
先生が、背中が痒かち言いよっ時に心にどんかきよる。はあそげなとこじゃなかがち言うちから、かえって歯痒い思いさせなならん。ね、はあ先生いつもここんところが痒いよりなさるという事を知っとくと分かる。ね、ですからいかにその神様とです、私共が密接であらなければならないかと、ね。神様が仰っしゃるけれども、神様はああ言うておられるから、というようにです。私の神様の願いに応え奉ろうとする信心。ね、それに応え奉る時の状態がです。ね、いわゆる私を言うならば空しゅうしとかなければ出けません。
いや、神様が大事であるという信心が大事であるという事が分かっておらなければ、それが出来ません。自分の身の方が大事、自分の事の方が大事。ね、ですから本当に神様がレンコン、例えばこの御広前なんかはもう私の信心とは、もう夢にも思わない。かと言うて皆さんの信心とも思わない、ね。やはり神様がレンコン食うて下さってから、このような御広前を神様が下さったんだと私は思う。ね、それには私共17年間という、神様の心を分からせてもらいたい、神様の心を分からせてもらいたい、神様がこう例えば謎を掛けなさるならその謎に、を解かせて頂こうと一生懸命に努力したところに、神様が私共の心の中に欲しておるもの。
私共、口には言いやきれんけれども、心に頂きたいな、欲しいなと思うておる物を神様は見通しだからそれを、嫌が上にもこう下さるのである。ね、私共が求めておる物、でも口には出されん。けれども神様がそれをレンコン食うて下さるようにおかげを頂けれる。ね、そういうところからでもです、私共が神様をどのくらいに好きであるか、大事にしておるかという事を悟らせてもらい。ね、もっともっと大事にしていかなければ。それは皆さん金を大事にしてもいいです、物を大事にする事も信心なのです。
ね、ですけども神様を大事にするという事がです。ね、しかも私の命よりも大事にするというような信心が出けた時にはです、もう絶対神様、一切を生かす事を分からせて頂いておるです。ね、何もかもを生かしておる。だから何もかにも大事にしておるという事になるのです。ね、だからそこんところを部分的に、なら切り離して言うても今日の御理解はいいですね。皆さん、お金が大事、「と思おうがね」。あれをかけて、こうやってタンスの中に閉め込んどく事が大事にする事じゃないという事が分かった。
ね、そのお金を生かさなきゃいかん。ね、生きておるからこれが、孫連れて来たり、ひ孫連れて来たり する訳なんです。例えば百円が千円になってくる訳なんです。ね、財布の中にしまい込んだりアイロンかけたりするなら、その先お金の方があつと言うてやけどする。箪笥の中に閉め込んだら、もうそこ窒息してしまう。ね、こういう馬鹿らしい話はないのですけども、それを大事にする事のような間違いをしておる。私は姑親を大事にしておる、婿も大事にしておるけれども、大事にされないという事がすでに大事にしてない証拠なのであるから、ね、本当に大事にするという事はどういう事かという事を求めなければいけん。
ね、親を大事にするという事はどういう事かという事を、私は本気で分からせて頂こうという気にならなければいけない。私はお金をこんなに大事にしておるのに、と言うてお金の不自由をしておるならばです、お金を大事の仕方が間違っておる事を悟らせて頂いて、そこんところを教えて頂くのがです、道なのである。金光大神はそういう道を教えておって下さるのだ。ね、家繁盛子孫繁盛に繋がる道を教祖の神様は私共に教えておって下さるのである。その道を辿らなければいけんのである。その道を辿る、ね。
家繁盛子孫繁盛、おかげばっかあるのごたる、ところがそのおかげばかりですよ。けどもそのおかげばかりの道をです、体得させて頂くという事が、そのまま神になる道なのだから、信心、お道の信心は素晴らしいでしょうが。あれは御利益信心。なるほど御利益信心なんです。けれどもその御利益信心でも他ので言うところの御利益信心とは訳が違う。金光大神が教えた事を違わず、それを、その道を体得させて頂く、分からせて頂く事によって、祝いめでたというようなおかげに繋がって行くというとこと同時に、私共はそのまま生神になって行けれる道なのである、ね。
いよいよ真心が強うなる、信ずる心が強うなる、神心が強うなって我とわが心が拝めなければおられない、有り難いというものを身につけて行く事になる。そういう信心を楽しみにお互いが身につけて行かなければならない、ね。どうでも皆さん、私がこの前から謎をかけておる事をです、皆さんが解いて頂きたいんですけどね。はあ、皆さんお分かりでしょうか。今度はここが教会になりました。私は教会長として初めてここの開教式を終わらせて頂いたお礼に、総代さん方を一緒に御本部参拝をいたします。いやあ、話に聞いとったばってんか、あれが合楽の先生ばいな、あれが合楽の教会長、あれが総代さんだ、あれが信者だと。
まあ、見てくれじゃないけれどもです、さあそこんところが私が言われんと思います、ね。 「 」はせんち、お申し込みは23日まで「 」。はあ何人かしか申し来んじゃった。とにかく私の心を一つも「 」としない。それからと言うて椛目の人はです、私は40人が40人、50人「はぎ出したら?」皆が参るんですよ、不思議に。だからそれだけはですね、なら皆さんの信心がならんでしょうが。ね、ある方のお願いをしております、それでも今のような状態では時期の上にも金銭の上にも御本部参拝は覚束ないのですけれども、どうぞ今度だけはおかげ頂きたいのですから、お繰り合わせお願い致しますというお願いがしてある。
ね、そういうようにですね、私はそういうようなところが一つ。あのね、皆様、皆さんがその神様のその、くうてくれと言いよりなさるような事は分からんならです、せめて親先生がレンコン食うてくれと言いよるような事ぐらいは分からせて頂いて。もういち早く、もう本当にいち早く、もうその晩にでも。私は昨日、この前の18のお月次祭に、それば10人なら15人の方が、私が、ね、「 」でお願い致しますと言うて行ったら、もうその方を「 」拝まなん気持がするでしょう。
けれども、前の朝にち言われちから、しぶしぶ参るような事では、私もさほど嬉しゅうないですよ。ね、それが皆さんの信心にもならないという事。ね、皆さんが大事にされるという事をです、ね、もっと一つ色んな意味で大事にされるけいこをなさらなえればならん。そこに、生神、いわゆる一番始めに申しました。ね、狐狸ですら死したる後神に奉られるという事を喜ぶと言うではないか。まして人間は万物の霊長であるから、死したる後に神に奉られるという事を、また神になるという事を楽しみに信心せよと。
そういう楽しみの信心をですね、自分の心の中に気付いて行かにゃいけん。はあこの調子で行ったらおかげ頂けれる、この調子で行ったら生神になれるというもの。ところがその道を習うてもしない、道を行じようともしない、ただおかげを下さい、おかげを下さいという信心が、もし50年間続いても、それでは神にはなれないという事ですね、どうぞ。
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